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| ■『科挙制度』
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科挙は、元来は中国独特の官僚登用制度を指します。隋代〜清代まで約1300年続き、この制度により天子(皇帝)は門閥に臆することなく、我が意に添う官僚を登用できたのです。
科挙試験も時代により変化します。宋代を例に見てみましょう。まず俸禄(お給料)を貰える官僚(官使)になるには、まず本試験である会試を受ける必要があります。この資格を持つ者を生員(秀才、童生、貢生とも呼ぶ)と呼びます。ちょっと前の旧帝大の学生といったところでしょう。
この院生になるのも容易いことではありません。大まかには県試(童試)、府試、院試を突破しなければなりません。こうして初めて本戦への受験資格を得ます。高校球児なら市・県大会と勝ち抜き、やっと関東大会でベスト4に残った感じに近い感じでしょうか?。
しかしこれで甲子園というほど甘くありません。何せ宋代ですら4億の民を抱えていた中国。〜多すぎますね(笑)〜。
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実は院試の前に郷試という予備試験があります。ここで受験者(生員)を1%まで絞りこむます。つまり甲子園ベスト4の実力者を百分の一まで絞り込むわけです。超が3つほど付くほどの難関です。
この郷試は三日三晩続きます。独房みたいなところで…一族の期待を一身に背負い…極度の緊張状態の中で行われます。発狂する者も数知れず…。
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《合格者の石碑》 |
これに受かると挙人と呼ばれ、周囲の扱いが一変します。砕けた言い方をすれば『俺が町のお大臣様です』。またその生家は名家となり、その一族は地方の名門ということになります。
郷試の翌年に挙人を集めた会試があります。これに受かると晴れて高級官僚です。首席合格者は会元、次席は亜魁と呼ばれました。合格者はさらに天子自らが行う殿試に進めます。この人達を貢士とも呼びます。
荊州ではここまで来る人がいなかったため、この地を天荒(未開の地)と呼びました。劉シュウという人が出て、初めて受かります。そこで、とんでも快挙ということで、破天荒という言葉が生まれます。
やっと最終試験の殿試です。朝廷内で天子みずから行う試験です。合格者は進士と呼ばれますが、特に首席合格者を状元、第二席を榜眼、第三席を探花と称しました。このクラスになると皇帝の一族から嫁をもらったりもします。つまり外戚として政権に携わることもあります。
この状元、榜眼、探花を最も輩出した町のひとつが紹興です。あの有名な紹興酒の発祥の地です。魯迅や周恩来の故郷といった方が馴染みやすいかも知れません。次回は紹興の旅をお送り致します。
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| ■『
江戸スーパー列伝(浅田宗白) 』
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浅田宗白(あさだそうはく)は幕末の人である。
今大河でやっている新撰組と同じ時代と考えて下さい。
皇女和宮(14代将軍の正室)の主治医であり、後に大正天皇の主治医にもな る。
当時の漢方家としては最高の栄誉というところだろう。また政治家、社会運動家としての顔も
持つ。慈善事業もこなす。おまけに著作も多数ある。さすがスーパースター だ。
まず、将軍家と天皇家に縁あることから、ある二人の人物を引き合わせることになる。
勝海舟と西郷隆盛である。いわゆる大政奉還を決めた会談をセッティングした影のフィクサー
なのだ。歴史的にみればこの会談により日本の方向が決まり、列強の餌食になるのを
まぬがれたわけであるから、果たしたその役割は小さくない。
ときは明治に移る。明治7年に医制が発布される。
これは簡単に言えば西洋医を学んだ者でなければ医師免許を与えないという法律である。
当時は圧倒的に漢方医の数が多い。
これ以後は、たとえ漢方医の子弟といえども西洋医を目指す。漢方の危機である。
そこで漢方のすばらしさを捨ててはならないと立ち上がったのが浅田らである。
いわゆる明治の漢方存続運動である。幾度の暗殺の危機を乗り越えた浅田は、この運動の
成果を国会の決選投票という形に持ち込んで行く。
しかし時代の趨勢に勝てず、10数票の差で敗れてしまい、その後、漢方の復興は昭和まで
待たなければならない。
浅田のすごさはこれに留まらない。診療の大半は無償で行われたという。
医療にかかる人に貴賤なしという思想の元、ほとんど診療費は取らなかったのだ。
その葬式には3000人を越す一般の方がお見送りしたそうです。
彼の漢方的思考は、折衷派と呼ばれ、その後の漢方3大流派のひとつを形成することになる。
上に立ち向かい、下に優しい。まさしく偉大なる義士であった。
この気持ちを官僚や政治家に少しでももってもらえるなら、この国は変わるだろう。
4月29日〜5月7日まで研修のため休診となります。
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| ■『
江戸スーパー列伝(前野良沢) 』 |
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前野良沢(まえのりょうたく)は杉田玄白(すぎたげんぱく)とともに『解体新書』の著者である。
中学の教科書にも載っているのでご存知の方も多数いよう。
しかしこの話、厳密にいえば間違っている。この難解な翻訳作業をリードしたのは確かに
良沢である。しかし出版に当たり、その完成度の低さから、著者として自分の名前を削って
しまったのである。凡人から見れば何と勿体ないことでしょう。
当時、新しい医学(蘭方)の訳本を出すということは、蘭方の第一人者として地位を得るという
ことである。それを自分の理想像との乖離を理由に捨ててしまったのであるから、現代なら
『ノーベル賞をご辞退申し上げ候』と言ったに等しい行いです。
その後、医学にとらわれず、建築学、天文学など当時西洋からもたらされる様々な学問の
翻訳作業に携わる。もちろん自費である。家を売り、食費にも困窮し、最後は野垂れ死にの
ような末路を迎える。
しかし彼の功績は西洋科学の吸収という点において燦然と輝くものである。
近代日本の礎を築いたといっても過言ではない。
一方杉田は蘭方の第一人者となり門前市をなしたという。もちろん門人に囲まれて畳の上で
大往生する。理想主義者と現実主義者。いったいどちらが幸福なのでしょうか?
少なくとも良沢自身は自信の尊厳を守ったという点では幸福だったのではないでしょうか。
でも考えさせられる問題である。
インホメーション:大和学習センターで行われた『免疫〜鍼灸の立場から〜』の講義は
50人以上の方にお越し頂き無事終了しました。有り難うございました。
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『 江戸スーパー列伝(杉山和一) 』 |
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杉山和一(すぎやまわいち)は江戸中期の医家である。
武家の子として生まれるも、生来眼が見えず、家督競争からはみ出す。当時家督が継げない
者は、医家、僧侶、建築技師になるのが相場だった。
この人医家を目指すも、不器用で鍼が一向に上達しない。
江ノ島神社に願掛け(もちろん鍼の上達を願う)に出かけ、その甲斐あって針管(鍼を痛くなく
刺すための筒)を発明する(伝説らしいが・・・)。
これ以後、追い風に乗るような人生を歩み出す。
後に関東検校(けんぎょう)となり、大奥付きの御典医にまで出世する。検校とは、今風に
いえば全国盲人協会会長といったところだろう。ギルド制のこの組織は、盲人の専売的職業
である琵琶弾き、按摩、高利貸しなどの組合で、上納金制を引く。
その下のほうの役職が座頭で、たとえば座頭の市さんは座頭市ということになる。
その会長だから収入たるや10万石の大名に匹敵したという。
あるとき将軍の難病を治したとき、「褒美に何か欲しいか?」ときかれ、「眼が欲しい」と答えた。
困った将軍は老中と相談し、本所ふたつ目に屋敷を与えたそうな。粋な話である。
後に世界最初の国立盲学校を設立し、世界史にその名を刻み込む。
その流れは東京教育大学−筑波大学と受け継がれ、世界の盲人教育の範となる。
運を掴み取った男はしっかりと世の中に恩返しをしたということだろう。
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江戸スーパー列伝(曲直瀬玄朔) 』 |
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曲直瀬玄朔(まなせげんさく)は戦国〜江戸にかけて活躍した医者である。
養父は曲直瀬道三(まなせどうざん)といって、後世派(ごせは)の創始者である。
以後、明治になるまでの医学界は、この後世派が権力を握ることになる。
ひと昔前の武見太郎日本医師会会長より権力者であった。?親の七光りもあったのだろうか?
玄朔は当時の有名人をことごとく診察する。家康(徳川)、秀次(豊臣)、利家(前田)、淀の方
など数え上げたらきりがない。この臨床報告集が今でも残っている。『医学天正記』という。
この中で秀次と淀の方の症例が突出して面白い。時期は違うが二人とも『気鬱による喘』を
患う。今流にいえばストレス性喘息発作あるいは心身症により呼吸困難といったところだろう。
関白秀次は、先の関白で当時の絶対権力者である秀吉に待望の子供(秀頼)が生まれた
2ヶ月後に診察しており、淀の方はちょうど徳川との権力闘争の渦中での診察である。
お二方ともガチガチのストロング・ストレスが溜まっていることは想像に難くない。
この本の愛読者であった司馬遼太郎氏は、淀の方が常に不安でイライラした状態にあったと
推察し、小説の中で(確か太平記だと記憶する)、眉間にしわを寄せ、マユを吊り上げた
淀の方の像を描く。それ以来NHK大河ドラマを始め、民放各局も淀の方のメークは、
吊りマユ顔が基本となる。 美人女優を配しても綺麗に見えないのこれによるのだ。
さすがは司馬遼太郎、ただ者ではない。病気から性格を推し量るとは。
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中医学に基づいた鍼灸治療のさくら堂治療院
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